ゆらぐ空間

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観に行った映画館が小さなところで、シネコンに慣れた身には狭すぎて息が詰まりました。でも、そのおかげで作品の舞台になった劇場のバックステージや廊下、楽屋の閉塞感が存分に味わえたともいえます。

かつてヒーロー映画『バードマン』で一世を風靡(ふうび)した俳優リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、落ちぶれた今、自分が脚色を手掛けた舞台「愛について語るときに我々の語ること」に再起を懸けていた。しかし、降板した俳優の代役としてやって来たマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)の才能がリーガンを追い込む。さらに娘サム(エマ・ストーン)との不仲に苦しみ、リーガンは舞台の役柄に自分自身を投影し始め……。(シネマトゥデイより引用)

落ち目のスターが奮闘する、あるいはパフォーマーが己の芸術性の限界に挑む、というのはよくあるストーリーですが、この映画が面白いのは虚実入り乱れているところ。なんと意味が分からないことに、この主人公は超能力を使うことができるという設定です。のっけからパンツ一枚で空中に浮き、キレるとサイコキネシスで楽屋の備品をバンバン壊す(という設定)。え?あらすじと雰囲気違うんだけど?と狐につままれた気持ちになりますが、それもちゃんと物語の一環。どうもこの超能力は精神を病んだ主人公の妄想である可能性が高く、彼が追い詰められるにつれて超能力とやらも烈しくなっていきます。

それにつき合う観客は、常に考えずにはいられません。いま自分が観ているのが現実なのか、それとも主人公の妄想が見せる虚構なのか。いったい絶望的な展開なのか、それともやはり奇跡は起こるのか。どちらともとれるし、どちらにもとれない。わたしたちの判断力をもて遊びながら、虚実入り混じった世界は進行していきます。

そして映像的な特徴もこちらに揺さぶりをかけてきます。長回し風の編集で(どうやってあんなに自然に繋いでるの?)カメラは自由自在に空間を移動し、そして時間をも超越します。主人公が廊下を歩きまわるシーンなんて、まるでこちらが幽体離脱して彼の後ろをフワフワ追いかけているよう。観客の感覚もどんどん狂っていきます。さらに断続的に挿入されるドラムのリズムも思考と呼吸のペースを乱してくる。そして正気と狂気の狭間をさまよう主人公の感覚を疑似的に味わうのです。意外と体験型。

それだけだとかなり息苦しい話になってしまいなすが、適度に笑えるシーンが散りばめられててバランスがいいので救われます。いや、主人公は一生懸命にシリアスに運命に立ち向かってるんだけど、それがゆえに笑いが発生しちゃうよねー。ある人の悲劇は別のひとからすれば喜劇だ、という言葉がありますが、それを実感する映画でもありました。『ブルー・ジャスミン』もそうでしたが、狂気を描いた作品は同時に最高のコメディにもなりうるのが恐ろしいところ。作り手が上手に描く対象から距離をとっていることの証とも言えますが。

上映後、まわりのお客さんが「疲れたー」とつぶやいていました。同感です。とにかく疲れた…。でも映画館で観てよかったな。あの閉塞感で、外界から遮断されて。

最後に一言付け加えるなら、エマ・ストーンの目がでかすぎってことかな。何もしなくても不安定な雰囲気出るから、ちょっとお得。