境界線上の「わたし」

 

Who Do You Love: A Novel

 

 

読んだといえば、ジェニファー・ワイナーの新作を読みました。

 

今回は珍しく恋愛がテーマの小説です。チックリット作家に分類されるわりに恋愛の比重が軽いひとだなーと思っていたので、ちょっと意外。8歳で運命の出会いを果たした少年少女が、その後約30年で経験する紆余曲折を描いた物語です。

 

よくあるボーイミーツガールものね、と侮るなかれ。実はこれ、アメリカ社会と人種混淆の物語でもあるのです。

 

男性主人公のアンディは、父親が黒人・母親が白人。そのせいで、どちらの人種グループにも馴染めません。肌がかなり白いので、黒人からは仲間とみなされない。白人はアンディが半分黒人だと気づかず、彼の面前で黒人差別発言をする。どのグループにも属せないひとりぼっちのアンディ少年の前に現れたのが、心臓病の白人少女レイチェルでした。

 

これ、現代の小説ですよ。アンクル・トムの時代じゃないですよ。読んでいて、米国の黒人差別の根深さに改めて驚きました。そりゃな、近頃でも暴動が起きるわけだ…。

 

アメリカで、黒人・白人両方の血を受け継ぐことが何を意味するのか。

 

物語の半ば、レイチェルと付き合っているアンディが不信感を抱くところがあります。どうもレイチェルがアンディの出自を隠しているように思われるのです、

 

以下はアンディの独白です。

A few times he’d started asking Rachel whether she’d told people that he had a black father, end every time he’d stopped himself.

(中略)

Even if Rachel had never lied about it, she could have used a little strategic silence here and there, let people think that Andy was Hispanic or Israeli or Greek.

 

父親が黒人だという話をひとにしたことがあるのか、レイチェルに訊こうとしたことが何度かある。でもその度に思いとどまった。

(中略)

たとえ嘘をついたことはないにしても、折々でうまく沈黙を利用して、アンディをヒスパニック系かイスラエル系かギリシャ系だと思わせたかもしれない。

 

 

アメリカ文学の伝統に「パッシング」というものがあるそうです。昔のアメリカにはワンドロップ・ルールという掟があって、一滴でも黒人の血が入っていればそのひとは黒人と見なされました。白人が黒人との人種混淆を嫌い、その子どもを白人社会から排除したわけです。この「白人/黒人」の厳しい区別がたくさんの悲劇を生みました。そのひとつが「パッシング(なりすまし)」アンディのように肌の白い「黒人」が、自分の出自を隠して「白人」として社会生活を送ること、だそうです。アメリカでは「黒人」よりも、「白人」の方が圧倒的に生きやすいもんな。ただし、それは自分の両親どちらかの存在を隠すこと、そして自分の半分を否定すること。「白人/黒人」の狭間をさまようひとたちの、引き裂かれたアイデンティティの問題をえぐり出す言葉です。

 

アンディ自身は別に「白人」として生きようとしているわけではありません。ただ、レイチェルが自分の人種的なルーツを(積極的にではないにせよ)隠すのあれば、その行為はアンディからすればパッシングの強要とも解釈できます。

 

ただ、興味深いのがレイチェル自身もある意味ではパッシングの物語を生きている点です。子どものころ心臓病で入退院を繰り返していた彼女もまた、「健常者/病者」の区別に苦しんだ経験があります。そして思春期になったレイチェルは、普通の女の子として生きることを選びます。胸の手術痕を隠し、病気の影響で血色のわるい指先にはネイルカラーを塗って。

 

彼女の心の痛みは、やはり同じ立場にならないと決して理解できないほど深いもの。だからこそ、レイチェルとアンディは惹かれ合うのですが…。

 

この物語を読んで(とくにアンディの部分ですが)、鷺沢萠の『駆ける少年』を思い出しました。あれも「/」の狭間で生きる男性が主人公の小説です。こっちは日本国内の話だけどね。